インド聖典 人生の秘訣シリーズ 全16話
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バガヴァッド・ギーターとは ヴェーダーンタへの道 全16話 - ヨガ哲学の基本の準備

【第4話 人生ステージ4つの分割/アーシュラマ制】2.人格を改良する「教育、学び」のステージ

2.人格を改良する「教育、学び」のステージ

一番目のアーシュラマ/人生のステージは、「ブラフマチャリヤ・アーシュラマ/学生のステージ」、教育、学びに専心する人生です。

このステージでいう教育とは、何を目的としたどんな内容の教育なのでしょうか?今日教育というと、稼ぐための専門的な知識を学ぶことが殆どです。どの学位を取れば、できるだけ高い給料で、できるだけ少ない仕事量で、条件のいい仕事に就けるかなど・・・

これは聖典によるアプローチではありません。聖典は専門的なスキルを身に着けるのに学びが必要であることは認めています。それは私たちが生計を立てていく上で必要とされているからです。

カルマ・ブラーフマナ/聖職者、カルマ・クシャットリヤ/役人、カルマ・ヴァイッシャ/商人、カルマ・シュードラ/労働者、これらいずれかの自分に適した専門分野で、私たちは知識とスキルを身に付けなくてはなりません。これらの教育については、聖典によって理解され認められています。

しかし聖典は、これらは教育のわずか一面、二次的な側面に過ぎない、と言っています。しかし残念なことに今日では、これらは最も重要なこととされてしまっているのです。

聖典によると最も重要な教育の目的は、人を改良し、精製することであると言います。人格を磨き、社会の調和に適合するよう“変換”させることです。そして社会と個人の発展の両方に貢献することです。

もし改善されていない人、堕落した人が社会に出るなら、社会には不調和と問題が起こってしまうでしょう。なので、この“人の改良”だけが、本能に支配された動物的な人を、適切な生き方ができる、良識ある人間に変換させることができるのです。

スワミ・チンマヤーナンダがうまく表現していました。アニマル・マン(動物のような人間)は、マン・マン(人間らしい人間)に生まれ変わらなくてはならない。野性的な人間は、飼い馴らされた教養のある人間にならなくてはならない。そのようなマン・マン(人間らしい人間)になった時にのみ、ゴッド・マン(神のような人間)に転換することができるのです。

鉱山から採掘された粗い鉄である鉱石は、粗い姿をしています。それは誰も使うことができない粗い鉄の塊です。鉄であるのは間違いないのですが、この鉄は使える可能性があるというだけで、まだ使うことはできません。もしこの鉄を使いたいのであれば、鉄を工場に持って行き、精製の過程を経て“精製された鉄”に変換させなくてはなりません。そうすることによってのみ、鉄として利用可能になるのです。

それゆえ、鉄は2つの誕生を経る必要があります。最初の誕生は粗っぽい鉱石の形、二番目の誕生は工場での精製による形です。

同じように、私たちが母親から生まれてくる時、最初の誕生の段階では、まだ精製されていない粗野な状態、まだ“可能性として”有用な形に過ぎません。しかし私たちはそのまま社会に出るべきではありません。二番目の過程である、学校、教育のシステムを経て精製、改良されなくてはなりません。

それが、私たちは“2つのジャンマ/生まれ”を持っていると言われる理由です。マヌ・スムルティでは、私たちには“二組の両親”がいる、と言われています。

最初の両親は、まだ精製されていない人間の形で生を与えてくれた、生みの両親です。二番目の両親は、神の言葉・聖典を教えるグル/先生=父親と、神聖な知恵・教育を与えてくれる女神サラスワティー=母親です。父親であるグルと、母親である教育が合体して、人を有用な、洗練された大人の人間にしてくれるのです。

それゆえ、教育には聖典の教えも含まれるべきだと、聖典は言っています。それが、教育のステージがブラフマチャリヤ・アーシュラマと呼ばれている理由です。ここで言うブラフマ聖典・ヴェーダの意味です。そしてチャーリ思案するチャラティ歩くという意味です。物理的にヴェーダを歩くということではありません。“精神的に”ヴェーダの教えの中を旅するという意味です。これは聖典の教え、教育のことに他なりません。こうして、ブラフマチャリヤ・アーシュラマの道を歩むのです。

では、“どんなタイプの教育”が、人格を改良するために必要なのでしょう?
聖典は、「人を改良するための“3つの教え”」を示しています。

1.「何のためにやっているか?」を明確にする

一つ目は、自分がやっていることの「究極の目的は何か?」ということを、明確に知っておく必要があるということです。

サッカーの試合を想像してみてください。11人のメンバー全員がボールのドリブルの仕方を知っています。相手チームにボールを取られないよう自分のチームのメンバーだけでボールを回すことを、1時間半もの間やり続けたとします。しかし一発もゴールを決めることができなかったら、何の意味もありません。

ボールをドリブルすること“自体”が目的ではない、ということを、私たちは覚えておかねばなりません。1時間半経った後にはぐったり疲れているのに、そこに成功はありません・・・

サッカー選手がどんなに苦労してボールを回したとしても、その苦労は「ゴールを決める」という、たった一つの目標のためだということを、彼らは理解しています。

人生全ては、このサッカーの試合のようです。
私たちは、お金、家族、仕事など、たくさんのことを扱っていかねばなりません。しかし、これら全ては一体何のためにやっているのでしょう?これら全てのゴール(目的)は、“モークシャ”であるということを、明確に知っておく必要があります。

そして、アニマル・マンから、マン・マンに、そしてゴッド・マンに、自分自身を変換させていかねばなりません。これが目的です。もしこれが達成できないとするなら、サッカーは上手にできたけど、ゴールを決めるという結果は出せなかった、ということになってしまいます。

それゆえ学びの道にいる者は、“霊的なゴール”が究極のゴールである、ということを教育されなくてはいけないのです。

2.「儀式的な礼拝」を身に付ける

二つ目の必要な教えは、一般的に“儀式”として知られる、「宗教的な礼拝の知識」です。今日多くの人たちは、礼拝や儀式の役割と重要性を正しく理解していません。ここでいう礼拝とは、”身体を使った”礼拝のことです。

“訓練”と“儀式”は常にセットになっている

儀式・礼拝は、訓練を向上させるのに最高の方法の一つであると言えます。宗教的または物質的な儀式があるところには、必ず訓練がついてきます。そして訓練があるところには、自動的に儀式がついてきます。

国の軍隊を見てみてください。軍隊は国の中でも、最も訓練されたものだと言えます。そして彼らは、最も多く儀式を行っています。まず挨拶儀式的です。歩くのも儀式的です。立っている時でさえ儀式的です。彼らの全ての行動儀式的と言えます。このように、“訓練”と“儀式”は常にセットになっています。それゆえ訓練を向上させるためには、儀式の形式が必要なのです。

肉体的なルーチンワークも儀式

そして人生の中で、エネルギッシュな力強さを向上させる必要があります。なぜなら、怠惰さは人間の肉体にとって最も自然なことだからです。

怠惰さは身体にとって先天的なことです。私たちが生活の中で肉体的なルーチン(決まった日課)を行わない限り、怠惰さが無くなることはありません。だから“肉体的に行う儀式”が必要なのです。

もし、寺院に行ってプラダクシナ(寺院の周りを3回歩く儀式)をしないと、公園を無理やり歩かされることになるでしょう。もし家で太陽礼拝などのアーサナ・ヨーガをやらないのであれば、ジムで筋トレをやらなくてはいけません。何かしらの儀式が必要です。ジムに行くか太陽礼拝か、プラダクシナかウォーキングか、名前が違うだけです。儀式という名の肉体的なルーチンワークは必要です。

ですので、訓練とエネルギッシュな力強さの向上は、肉体的な表現によってのみ可能です。そして究極的に神への献身を向上させることも、肉体的な表現によってのみ可能です。なぜなら献身も他の感情と同じように、内なる心の感覚だからです。

言葉と肉体による”表現”は、感情を増幅させる儀式

では感情をどのように表現できるでしょう?感情は目に見えないものです。もし誰かを好きになったとしたら、その人に自分の感情を表現して知らせなくてはいけません。その場合、“言葉”で表現するか、“肉体”で表現するか、またはその両方で表現するのか、のいずれかになります。どんな感情も“言葉”または“肉体”でしか、表現することはできません。

そしてそれゆえ常に、「愛してる、愛してる」「ハニー、ハニー」と、繰り返し言い続けなくてはなりません。こういうのは最近のアメリカンな表現かもしれませんが(笑) これは“言葉”での表現です。

しかし言葉だけでは足りません。定期的にプレゼントを贈らなくてはいけません。プレゼントを贈るのは“肉体的”な表現です。握手するのも肉体的な表現、旗に敬礼するのも肉体的な表現です。

ボディ・ランゲージなんて実際には存在しないにも関わらず、人々はそれについて語ります。ではなぜボディ・ランゲージが可能なのでしょう?なぜなら、肉体はコミュニケーションするための“言葉”を持っているからです。それがポジティブな感情であろうが、怒りなどのネガティブな感情であろうが、です。

そしてこの表現は、感情を明らかにするだけでなく、感情を“増幅”もさせます。肉体を使った表現は、感情に作用するだけではなく、感情を増幅させることもできるのです。ですので、言葉と肉体の表現は、感情の“原因”と“結果”(感情を表現する→感情が増幅する)であると言えます。

私たちはプージャー(祈りの儀式)をする時、自分の神への献身を、言葉と肉体を使って表現しますが、プージャーを通して自分の献身を増幅させてもいるのです。それゆえ、私たちの神との関係生きたものとして保たれ、人生を通して増幅するのです。なぜなら究極的には、永遠に続く関係は神との関係だけであるということを、聖典は教えようとしているからです。

全ての人間関係は、どんなに注意して育んだとしても、いつかその関係に終わりは来ます。もし一つの永遠に続く関係があるとしたら、それは神との関係です。その崇敬と献身の関係は生きたものとして保たれ、育くまれなくてはなりません。

3.“正しい価値基準(ダルマ)”に合わせて自分を調整する

そして最後に教育は、不動不変の、重要な人生の価値基準/ダルマを教えなくてはなりません。それらは妥協を一切許さない、永遠に変わることのない宇宙の価値観です。私たちは正しい価値基準(ダルマ)に合わせて人生を調整する必要があります。価値基準(ダルマ)が私たちに合わすことはできません。

「7つの習慣」という本に、こんなおもしろい話が書かれていました。

ある船長航海に出ました。船には明るいライトが設置してありました。航海の途中で、彼は遠くに別の船のライトを見つけました。そしてそのライトは、まさに彼が行こうとしている方角にありました。このままではその船と正面衝突してしまいます。なので、どちらかの船が方向転換をしなくてはいけませんでした。

そしてこの船長はとても力があり、同じように船も巨大な軍艦で、彼のエゴは方向転換することを許しませんでした。車でもありますよね?そっちがバックしろ!俺はしないぞ!などと。これはエゴの問題です。

そこで彼は、メッセージを送りました。「方向転換をしてください」そうすると今度は彼の方がメッセージを受けました。「方向転換をしてください」既にエゴの問題が始まっています。彼はカッとなりました。そして、「おまえに命令を下す。方向転換をしろ!」。するとまた返事がきました。「おまえに命令を下す。方向転換をしろ!」そして船長は再び言いました。「私、破壊船のキャプテンが命令を下す。方向転換しろ!」そして3度目のメッセージを受けました。「私、灯台守(灯台の管理人)が命令を下す。方向転換しなさい・・・」

「エゴ」に何が起こったでしょう。常設で動かないもの(=灯台)が方向を変えることなどできないことは、彼も知っていました。彼が学ばなくてはいけなかったのは、自分自身が調整して方向を変えることでした。それゆえ、ダルマ/動かない価値基準が灯台だということは、忘れてはなりません。
これがサナータナ・ダルマ/普遍的な正義、価値基準です。これを身につけ、肉体的、感情的、知的にダメージを受けず健康に保ち、妥協してはいけないことを知らなくてはなりません。

ですので、教育を通して、人生の目的、肉体的な礼拝の価値、そして人生における正しい価値基準についても知らなくてはなりません。一度この3つのステージを経たなら、洗練された人間になっているはずです。そしてもう二度と、社会の脅威などにはならないことでしょう・・・

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