【第2話】2.ヴェーダを体系化した「スートラとスムルティ」

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【第2話】シャーストラ/インド聖典の全体像

6つの聖典のグループ-その2「スートラ/格言」

2番目の聖典のグループは、「スートラ」です。スートラという言葉を訳すと、 アフォリズム/格言、箴言、金言、警句という意味になります。アフォリズムとは、要約された教えがたくさん含まれた、秘められた、謎めいた声明という意味です。これが、スートラと呼ばれています。

そしてこのスートラの文献は、「体系化された形式のヴェーダの教え」で構成されています。スートラには、ヴェーダの教えをテーマに基づいて分類し、配列をし直して、明確にする、という役目があるのです。

なぜならヴェーダとは、いろいろなテーマが整理されていない様式で、あちこちに散りばめられた、膨大な文献だからです。このスートラの文献では、たくさんの教えが色々な場所から集められ、テーマごとにきちんと配列・分類がなされているのです。

例えば、「個人」の義務や責任について教えている場合、それはダルマ・スートラと呼ばれます。そして「家族」の価値や責任について教える、グルッヒャ・スートラ、そして次に、「社会全体」の幸せのための、もっと大きな活動について教える、シュラウタ・スートラがあります。一番小さな単位が個人、次は家族、その次は社会、という順番です。

そして、ヴェーダが神に著されたのに対し、これらの作品は、神によって作られたものではありません。スートラの文献は、人間の知性から来たものです。

しかし違いは、言葉は人間の著者に属しますが、中身はヴェーダから引用したものです。つまり、言葉は人間の著者に属していても、中身はヴェーダに属しているのです。

もしヴェーダの中に、曖昧な、または矛盾したように見える記述があった場合、それをスートラが明確にします。スートラの文献によって、体系化と明確化の両方が成されるのです。

実際、スートラという言葉には、「糸」という意味が含まれます。スートラの意味は、糸と捉えることができます。なぜ、この文献は糸と呼ばれるのでしょう?なぜなら、スートラは、ヴェーダに含まれるテーマを編み上げるからです。

ヴェーダのテーマの数々は、まるで辺り一面に敷き詰められた花のようです。そしてその花は集められ、バラ、ジャスミン・・・といった具合に分類分けされます。そしてそれらは繋ぎ合わされ、美しいガーランド(花輪)となるのです。

6つの聖典のグループ – その3「スムルティ/記憶されている」

3番目のグループ層は、「スムルティ」です。スムルティは、一般的に「詩」の形式で、「韻」を踏んでいる文献です。そしてスムルティ(記憶する)という言葉が表しているように、それは記憶されている叡智です。

リシたちがヴェーダを勉強し、スートラを勉強し、そして全ての教えを集約し、スートラとスムルティにしました。彼らは再び、綿密に調べ上げた形にしたのです。スートラの文献は、謎めいた表現方法をしていますが、スムルティの文献は、もう少し精巧になっています。

スムルティの役目も同じで、体系化と明確化です。そして幾千もの詩が、色々なリシたちによって記されました。スムルティには、マヌ・スムルティヤグニャヴァーキャ・スムルティパラーシャラ・スムルティなどがあります。

もしあなたがスムルティの本を手に取ってそのテーマを見たとしたら、そのアレンジの美しさに驚くことでしょう。どのように創造は起こったのか?など、それらは宇宙論をテーマとしています。宇宙の美しい発展が記された後、人生のゴール、生徒の義務、家庭を持つ者の義務、統治者の義務、市民の義務、男性の義務、女性の義務・・・など、全てが美しく分類されて記されています。

スートラとスムルティの違いは、スートラは謎めいているゆえ曖昧とも言えますが、スムルティの方は、もう少し分かりやすく表現しています。スムルティ暗に示されたスートラの教えを明確にし、隠された教えを明るみに出しているのです。そしてこのスムルティの文献も同様に、膨大な文献です。

そしてこのスムルティも、人間の知性から来た文献に属します。人間の作品だけども、中身は神からのものです。一方、ヴェーダの場合は、作品も中身も神からのものです。しかし、2番目のスートラと3番目のスムルティは、作品・言葉は人間のものだけど、中身は神から来ているのです。

聖典を暗記するための3つの異なる形式

そして聖典の美しいところは、3つの異なる形式を取っているということです。

1.散文体の形式―スワラの付いたチャンティング
もしそれがヴェーダの中の散文体の形式であれば、それにはチャンティング(詠唱)に役立つスワラと呼ばれる抑揚が付いています。スワラ/抑揚が付いているからチャンティングが可能なのです。英語の散文体の文献をチャンティングできますか?しかし、ヴェーダの散文体はチャンティングが可能なのです。

なぜ彼らはこのようにしたのでしょう?私たちが暗記して学べるようにするためです。もし、全てのヴェーダを記憶できるならそれで問題ないでしょう。時折、全てのヤジュルヴェーダのパーラーヤナ(詠唱)が指揮されることがありましたが、彼らは一冊の本さえ持っていなかったのです。

司祭たちがやって来ても、私たちはあまり観察したりしません。何かのチャンティングをやってるな、くらいしにか気にも留めません。彼らが一冊の本も持たずに、皆でマントラのチャンティングを練習していた日々を想像してみてください。このことは、全てのヴェーダは記憶可能だということを証明しています。なぜ記憶可能なのでしょう?スワラ/抑揚が付いていているので、チャンティングができるのです。

2.スートラの形式
さもなければ、短く簡略された、謎めいたスートラの形式によっても記憶が可能です。これは、記憶術を使って記憶することができます。何百冊もの本に記された全ての教えが、スートラの形だとたった5ページで記すことができます。これはちょうど、ブリタニカ百科事典が一枚のCDになったようなものです。

3.詩の形式
もしそれが、ヴェーダのチャンティングやスートラの形式でなかったなら、詩の形式でした。全ての哲学が、バガヴァッドギーターの詩の中に記されています。そしてそれをチャンティングすることができます。哲学をチャンティングすることができるのです!ギリシャ哲学や、他の哲学をチャンティングすることができますか?ここでは、哲学そのものが、詩の形式で構成され記述されたのです。

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