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【第1話 4つの人生の目的】
- 知性を使わない人間は動物と変わらない
- 安全・快楽・目に見えない幸運、3つの目的
- 人類の最終目的地は、「悟り・解脱」
モークシャ/自由、解放、解脱、悟り
4つ目、最後に来る人生の目標は、「モークシャ/自由、解放、悟り」と言います。または、シュレーヤとも呼ばれています。
モークシャとはどういう意味でしょう?モークシャは「自由」と訳すことができます。何からの自由でしょう?政治的な自由?経済的な自由でしょうか?
それは、内面の自由、内なる自由です。何からの自由でしょう?ダルマ(幸運)・アルタ(安全)・カーマ(娯楽)による「奴隷状態」からの自由です。今までの人生の中で達成した、全てのものからの自由です。
では、どんな風に、ダルマ・アルタ・カーマ、世の中の何かの奴隷になり得るのでしょう?世界のどんなものでも、またはどんな人でも、2つの方法で人を奴隷にしてしまいます。
一つ目は、自分の人生に「ない」ことによって奴隷にしてしまうものです。特定のものや人が、そこに「ない」ために、もし、空虚に、つまらなく感じてしまうなら、それはあなたを奴隷にし得るということになります。なぜなら、常に私はそれに取り付かれ、悩まされていることになるからです。これがない、あれがない、お金がないなどの、強迫観念となるのです。
ある人は、妻または夫がいない、誰も結婚してくれない、と言います。配偶者が「いない」ということが、束縛となるのです。そしてまた別の人は、子供がいないと言います。
したがって、それが「ない」ことによって、それが空虚感を作り出し、私を束縛してしまうのです。
そしてどんな感情が起こるでしょう?彼がいない、友達がいない、寂しい、何かが足りない、お金がない…
このような、どんな「ない」という感覚も、「奴隷観念」から来ているのです。
そして今度はまた別のやり方で、「ある」という状態で、ものは私を縛ります。その人の問題は、配偶者が「いない」ということではありません。夫または妻が「いる」ということが、その人の問題なのです。
なので、配偶者がいない、子供がいない、ということではなく、今度は「いる」ということが問題になります。何かが「ある」ことによって、ストレスや心配事が作り出され、それらが私を束縛するのです。
このように、「ない」ということが空虚感を引き起こし、「ある」ということはストレスや心配を生み出します。ですので、ないことにより問題を作り出すものもあれば、あることで問題を作り出すものもあるのです。また、あることとないこと、両方によって問題を作り出すものもあります。あるのも問題だし、ないのも問題です。何だって問題になり得ます。
プレーヤス/自分の外に目標を設けることの”奴隷状態が、束縛になっているのです。この奴隷状態からの「自由・解放」が必要なのです。別の言い方をすると、この自由・解放は、セルフ・マスタリー/自己制御とも言います。私はもう、ダーサ/奴隷ではない、私はスワミ/自己を制した者だ。
スワミとは、ただオレンジ色のカーヴィ(宗教的な衣)を着ているだけの人とは違いますよ。あれは外側だけのスワミです。この外側だけのスワミも、奴隷になり得ます。彼は、「私はアシュラム(霊的道場)を持っていない」と言うかもしれません。
また別のスワミは、「私のアシュラムには、全然弟子が来ないんですよ。色々なことを試みたのですが…ちらほらと人はやって来るのですが、長くは居ないんですね。」このように、私には弟子がいない、名前、名声がない…いうことになってしまいます。
なので、本当のスワミらしさとは、内側の状態のことをいいます。どういう意味でしょう?本物のスワミは、何かがない時でも、そこに空白感を感じません。何か気に障るものがあったとしても、それをストレスとは感じません。
例えば、もし靴がなかったとしたら、これは問題になり得ますね。地面は熱いし、足にタコができたり、何かを踏んで怪我をしてしまうかもしれません。なので、靴を購入したとします。そしたら今度は、靴が足にちゃんとフィットしなくて、足が痛くなってしまいます。つまり、何が問題になるでしょう?今度は、靴が「ある」ことが問題になってしまうのです。
以前は裸足だったので「ない」を感じていました。しかし今度は、全てを得たにも拘わらず、それが問題となってしまっています。もうどうしたらいかわかりません。
もし、靴がちゃんと足に合っていれば、靴が「ある」ことに対して何の問題もありません。モークシャに関して言うと、モークシャは、ものがあってもなくても問題になりません。ダルマ・アルタ・カーマが、あろうとなかろうと、関係ないのがモークシャ、ということです。この内なる強さ、内なる成熟、心を制することが、モークシャと呼ばれます。
最初の3つのプルシャアルタ、ダルマ・アルタ・カーマは全て二次的なものに過ぎず、最後の一つであるモークシャが、最も重要なプルシャアルタなのです。なぜなら、ダルマ・アルタ・カーマは奴隷状態がずっと続くのに対し、モークシャのみが、もう二度と何の奴隷にもならない、解放の道なのです。
【第2話 聖典の全体像】1.膨大なインド聖典は「ヴェーダ」が基本へ
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